オウム教トップ7人死刑執行

法務省は6日、1995年3月の地下鉄サリン事件など計13事件で27人を死なせたとして有罪が確定した、オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(63)ら計7人の教団元幹部の死刑を執行した。

一連の事件では13人の元教団幹部の死刑が確定しており執行は初めて。関係者によると、法務省は死刑の執行前に、所持品の処分法や遺言などを死刑囚から聞き取る。遺言を残す死刑囚もおり、その内容は「死刑執行速報」と呼ばれる文書に記録されることになっている。松本智津夫死刑囚(63)の所持品のなかには遺書もなかったという。

これまで我々が知ることのなかった「平成の凶悪事件」――。司法がそう総括した暴走のきっかけは何だったのか。三つの転機から迫る。

 

オウム教トップ7人死刑執行」への3件のフィードバック

  1. Ⅰ、男性信者の風呂場の「事故」

    富士山を望む静岡県富士宮市の教団総本部で1988年9月、一つの事故が起きる。修行中の男性信徒が突然、大声を上げ始めた。幹部が水をかけたところ、男性は死亡してしまった。

    公にすれば教団の活動を休止せざるを得なくなることを恐れた松本智津夫死刑囚は、警察には連絡せず、幹部らに男性の遺体を処理するよう指示。幹部らは遺体をドラム缶で焼却し、骨を湖に捨てた。

    その場に立ち会っていた別の男性信徒は同年末、教団の出版物の営業活動に当たるよう指示された。だが、男性は「営業をやっても功徳にならない」と感じ、教団からの脱会を訴えるようになった。

    男性の脱会で事故が表沙汰になるかもしれない――。松本死刑囚は89年2月の深夜、幹部らを集め、「男性の考えが変わらないなら、ポアするしかないな」と命令した。幹部らは、コンテナ内で両手、両足を縛られた男性の首をロープで絞め、殺害した。

    教団の活動を妨げるものは命を奪ってでも口を封じる。重大な違法行為の連鎖は、このころ始まった。

  2. Ⅱ、総選挙の惨敗

    オウム真理教は小さなヨガ教室から始まった。

    松本智津夫死刑囚は1978年、都内の予備校で出会った女性と結婚し、鍼灸(しんきゅう)師として生計を立てていた。80年代半ばころから「麻原彰晃」と名乗り、都内でヨガ教室を開いて指導するようになった。

    84年ごろ、前身の「オウム神仙の会」を発足。座った姿勢のまま宙を浮いているような写真を雑誌に掲載し、誰でも修行すれば超能力者になれると説くと、入会希望者は増えていった。

    87年には「オウム真理教」と名称を変更し、89年には宗教法人の認証を受けた。教団の力を拡大するためには政治力をつけることが必要だと考えた松本死刑囚は、90年2月には教団幹部らとともに総選挙に出馬したが、全員落選。真理党代表として東京4区から立候補した松本死刑囚の得票は、1783票だった。

    元幹部の一人は法廷で、当時の教団内の様子をこう語る。「この頃から、被害妄想や社会からの孤立感が出てきた。こうした問題を払拭するために麻原氏を神格化する風潮が教団内に蔓延していった」

  3. Ⅲ、石垣島セミナー

    総選挙で大敗した後の1990年4月、松本智津夫死刑囚は「オースチン彗星の接近で日本に天変地異が起きる」と「予言」。石垣島に約千人の信徒を避難させてセミナーを開いた。

    検察側の主張では、教団はこの時期に合わせ、ボツリヌス菌を東京にばらまき、人為的な「大災害」を演出することを計画。松本死刑囚の指示で、幹部らが菌の培養に取りかかり、プラント生産を目指したが、いずれも期限には間に合わなかった。

    「天変地異」の自作自演は失敗に終わったが、教団の武装化はこの時期から一気に深刻化していく。松本死刑囚は幹部ら二十数人を集め、「現代人は生きながらにして悪業を積むから、全世界にボツリヌス菌をまいてポアする」と無差別大量殺人の実行を宣言。兵器の開発などを次々に指示した。

    また、セミナーは大量の出家者を出したとされる。この頃までには、オウムの出家制度は尊師である松本死刑囚に、心身と自己の全財産を委ね、肉親や友人らとの接触など、現世における一切の関わりを断つものになっていた。布施の名目で信徒らの資産を根こそぎ吸い上げ、多額の資金を投下して教団の武装化を進めることになる。

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